1984年ミス・セブンティーンコンテストのこと

前回のアイドルがアイドル以降どういう活動をするのかという点を考えたり、またBARBEE BOYSのライブ映像を観たときに「日本の『ロックバンド』って、一般化したのは思っているより歴史は浅いのではないかと思ったりして、現状日本の『ロックバンド』の今に至る流れを薄らぼんやりと考えています。
そんな中でバンドとは別位相ですが確かに継続的に存在する「アイドル的な佇まいまたは出自なのに『アーティスト』的に展開されるシンガー、SSW」についても考えていたのですが。

70年代から、女性シンガーの中には例えば竹内まりやのように、ルックスのよさゆえにアイドル的に捉えられ、プロモーションされるパターンは散見されたわけですが、その逆、「アイドル的な佇まいまたは出自なのに『アーティスト』的に展開されるシンガー、SSW」の始まりは比較的可視化されていると思っています。

具体的に言えば、1984年のミス・セブンティーンコンテスト。
グランプリは松本典子、網浜直子というその後アイドル歌手としてレコードデビューする2名、また特別賞を工藤静香が受賞するというかなりハイレベルな状況だったのですが、ここで最優秀歌唱賞を取った2名のその後が、現在に至る状況の分水嶺と言っていい状況であったと思っています。

歌唱賞のひとりは村田恵里。1985年6月にアイドル歌手として「オペラグラスの中でだけ」でCBSソニーからデビューしました。が、既に「夕焼けニャンニャン」がテレビ番組としてはその時既に放映されていて、7月5日にはおニャン子クラブがレコードデビューし、「アイドル」という概念そのものがそれでいろいろ覆っていくという状況下、さらに新田恵利が1986年1月1日に「冬のオペラグラス」でソロデビュー。
名前も曲名もダダ被り状況の中、当時のアイドル楽曲派界隈には評価されたものの全く売れず、その後アニソン歌手に転身したものの、アニメ界隈今のような状況ではなく、そのまま静かにフェイドアウトしました。
そしておニャン子クラブは「アイドル」という業態としてはある意味焼き畑農業的な側面があり、それ以降「アイドル」というフレーズは時にそれだけでネガティブに捉えられるようになっていきます。

ミス・セブンティーンコンテストの歌唱賞、もうひとりは渡辺美里。こちらはコンテストの出身ということは抑え気味にして「ロックシンガー」の看板で1985年5月にデビュー。それ以降の活躍はご存じの通り。
要するにこの差が結論であり、おニャン子以降「アイドル」という言葉にネガイメージが付いたことも踏まえて、その後ソニーが積極的に展開し、今も各社で綿々と続く「可愛い女の子をアイドルとしてではなくアーティストとして売る」路線の始まりがここ、ということになるわけです。

で、前にも言ったかと思うのですが、村田恵里さんは自分が中学の時の陸上部の先輩だったんですよ。自分が1年の時の3年。円盤投げやってて。小さくて本当に可愛い方でした。デビューした時には校内放送で曲がかかったりもして、その後も正味何で売れないんだと訝しく思ったり。
今いろんな音楽を俯瞰的に見てあーだこーだ言う自分の視点、この状況を経験したこともたぶんその一因ではないかと思っています。